本当の親孝行

親孝行を辞書で引くと

『親に真心をもってつかえ、大切にすること。親に孝行を尽くすこと』(注1)と出ております。全くその通りで、細かい事情があって自然に出来ないケースももちろんあるでしょうが大義に置いて、万国共通の価値観であると思います。

では、親子関係が成立している自分と父母、また祖父母が生きている数十年間の世界の事情を基準とした価値観では、辞書の通りとなるわけですが、もっと広い範囲の世界を基準として見た場合、親孝行という概念はどこまで深くまた広げて行くことが出来るのでしょうか。その点を考えてみたいと思います。

私は過去、物作りの仕事に携わっていた事があるので、それを例に出してみます。

一つの製品を作り世に送り出すには、構想から使用目的の絞り込み、機能や構造の諸々の設計、デザイン、組み上げ、テスト、検品と非常に多くの行程と人の手を経ることを何度も繰り返し、漸く一つの商品が出来上がります。製品の仕上がりまでの苦労が多ければ多いほど、その製品が、本来求められた目的を無事に果たし、より多くの人に使用されることを願います。

中には、故障して戻ってくる製品もあります。日本の製品開発と検品システムの精度は、非常に高いですが、やはり全ての使用環境への対応を見据えて開発できるわけではないので、戻ってくる商品もあります。また、商品にもばらつきはあります。一旦故障た商品も、ユーザーさんからの直してもらってまだ使いたいという気持ちが感じられると、修理が楽しく「よし頑張って働いてこい」という気持ちで商品を送り返します。

商品にも寿命があります。使用耐用年数を大きく超えてそれでもなお働き続けて、やがて、部品の寿命がくると壊れます。この場合に持ち込まれた商品は、修理ではなく、ここまでこの商品を使ってもらえて有り難うという気持ちとともに、商品を回収します。

物作りの側として残念に思うのは、商品を使わずに捨てられたり、価値を見いだされないままに終わってしまうことです。

では、この商品を子供、生産者を親に置き換えてみると、親孝行とは、商品が造ってくれた人に感謝の気持ちと報恩に尽くすという行為になります。もし、商品に意識があり言葉がしゃべれて、造った自分に、有り難うと言ってもらえると、悪い気持ちはしません。逆にこういう風になると困ります。あのお客さんのところで働くのはイヤだとか、商品には全ての機能が既に備わっているのに、「自分にはそんな機能は無いし出来ない」と思いこんで萎縮する、自分から壊れようとするなどなど。

商品として与えられた機能を素直に発揮して、最大限の活躍が出来て、それを通じて自分自信の価値に気づき、また、多くの人々に感謝され、役割を終えて帰ってきて、自分が生まれてきて有り難うと言えたならば、単なる感謝報恩から得られる充実感を越えて、もっと深い喜びが、創造した側は感じることが出来ます。

生まれてから死ぬまでの約80年間の人生が、例えば、80年の人生の中の小学校の期間と同じで、卒業後には更なる人生が待っているとすると、じゃ、卒業後にもある本当の人生全体を見て、親孝行とは何だろうかと考えたならば、たぶん「自分自信の存在価値がわかり、自分の能力を全て出し切って自分という存在の可能性を最大限に出し切って生きてゆくこと」が親孝行といえるのだろうと思います。

各個人能力や嗜好の違いから千差万別ですが、一つ上の人間という大枠の定義の中で、言うならば、人は、人の能力を出し切って、人しかできない事に邁進する義務が、既に人の存在意義として与えられてしまっていると感じます。森羅万象万物とそれがバランス良く保たれているシステムの中の一つの部品としての人という存在の義務や役割という意味です。

全てを包括する大きなシステムの事を神と言ったり、万物の主と言ったり、渋谷直樹先生、村上和雄先生が言われるサムシング・グレートと呼んでもいいでしょう。

大きな価値観の中では、自己限定は、親(神、万物の主、サムシング・グレート)に対する冒涜である。やりもしないで出来ないと卑下するのは、本来与えられている人の機能や能力を否定する考え方なので、逆に慢心に等しいと教わった事があります。

こうなると、非常に厳しいですね。人は、永遠に進歩・進化を求められる存在であると結論づけられます。

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注1)Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

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