3-1 労働の定義
・自分自身の存在意義と価値を探求する行為
・仕事とは、役割分担である
人は元来「10人十色」というように好きなことも得意なことも違っている。しかし、現代社会は、お金に価値の中心を持ってきているため、より多くのお金を稼ぐことのできる職種、業種に人々の就労意欲が偏る結果を招いています。例えば、「町を綺麗にするという仕事」と「新しい繊維を開発する仕事」との間にも役割の違いはあれど、仕事の価値において高い低いという差はない。
☆現代社会とこれからの時代の労働との大きな相違点
新時代のシステムでは、
1.お金と労働を切り離す
2.お金と「生きてゆくこと(生命維持)」を切り離す
ことが大事。
現代の社会システムでは、「お金」と「労働」と「生きてゆくこと(生命維持)」を連動させています。これらを切り離すことによって、経済学は必要なくなります。経済学とは「需要と供給の均衡を保ち完全雇用を目指す」ために存在しています。現代という社会は、完全雇用しなければ、食えない、生活出来ない人が発生するから困ると考えているのです。そのために経済学を用いて経済を動かそうとしています。つまり、経済が効果的に動いていなければ、生きて行けない人が出てしまうという仕組みです。そもそも経済学や経済理論は、全員を豊かにし、食べてゆける様にするためにどのようにお金という道具を動かしてゆくかを考える学問だったのでしょうが、現在は逆になり、経済システムとお金が人の上に立ち、人としての尊厳が失われる状態になっております。
現代社会では、経済は「実物経済」と「金融経済」に分かれております。
新時代の社会システムでは、実物経済は、現代のものとほぼ似たような形で残るでしょうが、完全雇用の達成を経済の仕組みに求める必要はなく、単に需要と供給のバランスが取れていればよいという役割になります。金融経済は、全く必要ありませんので消滅します。
需要と供給のバランスをどの様にとってゆくか?
有効需要を見ながら、必要なものを必要なだけ生産するという手法は、物流とIT化によって、現代の社会でほぼ完成しているといえます。
希少性の高いものの対応と扱いは?
現代社会の経済システムでは、希少性の高いものや供給量の少ないものは、値段を高くして流通させることにより、需要過多にならないようにバランスをとっております。
現代社会の中での希少価値の高いモノの定義と役割
1.人のもてないモノを持つことによって、自分の価値を認識しようとする満足心を与えるモノ。
2.人や社会にとって実用性の面で実際に必要であり、需要よりも供給量の少ないモノ。
上記1がなぜ成り立つようになったかを分析すると、やはりお金に価値観を集中させた結果に生まれた価値観に行き着くような気がします。1と2の違いは、2は本当に必要なものですが、1は無くてもよいものともいえます。
希少価値の高いものを自分だけが持つことから生まれる満足心、優越心は、社会システムの中で「お金を沢山持っている人が成功者で且つ価値が高いという」価値観ができあがったためにそのシンボルともいえる希少性の高いモノを得たい行為に見えます。社会システムが、価値の基準を「お金の量」から「人の社会貢献度」に変化してゆくと「必要ないモノ」をステータスとして求める意識も自然と減少してゆきます。
新社会での希少価値の高いモノの扱い方
1.モノへの所有権の喪失=特に希少性の高い物資は公共のものとなる。
※欲しい人は、順番待ちと特定の基準を満たした人に優先順位が与えられる。
2.何を基準に「特定の基準を満たした人」を定義して、その人に優先順位を与えるか?
※やり方は無限にあるであろう。人々は必ずその場その場での最良のシステムを創り出すはずです。
なぜならば、重要な点は、このような希少価値の少ないモノの供給不足や管理システム上の問題を解決するための仕事は、それを解決することによる「社会貢献度数」が高いので人気業種になるであろう。
価値の基準をお金から社会貢献度に変えることにより、社会の中の問題が多い物事に仕事として従事することほど、価値が高く、社会の中での満足心の得られるものに変化してゆく。
完全雇用の考え方は正しいのか?
新社会において仕事をする人々は、「自分自身はどういう存在であるか?」「自分は何が出来て人にどのように評価される自分であるのか?」などを確認するために、また、「自分が人や社会から評価され、価値のある自分である」ことを感じることをモチベーションに仕事をする様になります。このような価値観を持つ方が社会の大半になると思います。
しかし、仕事をしない人は必ず発生します。仕事をしない人の中には、したくない人としたくても出来ない人、子供や学生や老人の様にしなくてもよい人に分かれます。
では「仕事をしたくない人」とはどういう人で、人のどういう状態のことを云うのでしょうか。
・人間不信や社会不信から、自分の価値に疑問を持ったり、自信喪失となったとき。
・「自分だけ得したい」、「楽をしたい」という利己主義的な行動に走ったとき。(エゴの発生)
・肉体的な欠陥や病気により、具体的な社会参画が出来ない状態。(仕事の出来ない人)
現代の社会システムにおいてエゴが発生する原因は何でしょうか?
何故エゴが発生したのか
エゴ=自己中心的な思考と行動
・現代社会では、様々な条件や価値基準から人の「良し悪し」を判断する社会通念が存在し、人々は自然と一般常識化しているその価値観の影響を受けております。人はその大衆意識の価値観と比較して「自分はどうであるか」の様に自分の位置を常に確認して生きています。そして大多数が、その価値観の中での「良い側」に入ることを求めています。
・また、お金のシステムによって「持てる者」と「持たざる者」という価値観が増強されています。その結果、持てる者の側に入りたいとの過剰意識が生まれています。
人の資質や価値は、本来幅広い分野で評価されるべきものですが、現代社会が評価できる「良し」や「持てる者」という価値基準は、人の持つ資質のほんの一部分しか取り上げていません。仮に非常にすばらしい資質を持った人がいたとしても、その資質が社会が認め評価できる枠の外にあったならば、それは、価値のないものとして埋もれたままになります。
人の資質には多様性があり、受け皿となる社会と社会を構成する人の集団が、その他様な人々の価値をくみ取る器を持っていなければ、生かされない資質を持った人々は「持たざる者」として生きることになります。
エゴというのは、人の過剰反応に過ぎません。満たされない状態が続き、それが開放さる環境が与えられると、過去のバランスを取るために、自分が抑圧されたのと逆方向へ過剰反応を起こしてしまいます。
人が自己実現できることを社会システムの大きな目的となった社会では、エゴの発生は極端に減るものと思われます。
社会のシステムが変化し、古いものから新しいものへと変革を向かえる時代には、必ず過去の社会システムの中で抑圧されたものが吹き出し、ある一定期間は「バランス取り」の為の時期が必要となります。しかし、その様なバランス取りの期間を終えたとしても、仕事をしない人というのは必ず発生します。また、人々のエゴも様々な部分で必ず発生し、現れては消えてを繰り返してゆきます。
「完全雇用」を目指す考え方は、一元論の世界を表しています。しかし、自然界を見れば全てがバランスのとれた中庸の世界となっており、中庸なので必ず陰陽に分かれています。つまり、自然界は二元論で成り立っています。ですから自然界には無い一元論の考え方である「完全雇用」を本来あるべき社会の姿や目標として定義していることに無理があるのです。
社会のシステムを二元論で創っていった場合、仕事をする人が発生するためには、起爆剤となる仕事をしない人(出来ない人を含む)の存在が生まれてくることが必要です。例えて云えば、仕事をするという行為を理解するためには、仕事をしない人のモデルが必要になってくるという原理です。常に、物事には陰陽の二面性が必ず発現するのが自然界の姿ですので、自然に逆らわずに発現させることをあらかじめ社会のシステム組み込み、それをどの様にして中庸をとってゆくかに注力を注いでゆくことが大切になります。