目に見えない世界の真実が常識となると

※この内容は、霊体験を持ってから、世間一般の価値観とは違う価値観を持った人の妄想であることをお断りしておきます。

もしも、人の生命が永遠の存在と人々が認知すると、現代社会とどこが変わって行くでしょうか?永遠の存在とは、死んで終わりでは無いということです。個人の自我は、肉体の死とともに肉体から分離して、そのまま生き続ける状態を言います。

死が終わりではないことが当たり前の世界になると、

1.凶悪犯罪が圧倒的に消えて行く
凶悪犯罪の中で特に殺人。過失の場合をのぞいて、殺を人すという人の心理は、相手を消し去ること、つまり相手を無力化させることを目的としていると思われます。自分に対して二度と危害を加えない様によく口封じと言われます。

これは、「現代の目に見える世界だけが全てである」という価値観の世界でしか成立しない考え方です。

人というものが、死んでも生き続けている、そして、死んだ後の人間がどうなるか?また、死んだ後の人の世界と生きている人の世界の関係性が明確に分かってくると、単純に口封じの為に人をあやめるという理屈は成り立たなくなります。

同じように、犯罪を行うときは、誰もが「バレないこと」「他の人に気付かれないこと」を大前提に行います。人が見ていて平気で悪いことをする人も希にいますが、割合的には少数派でしょう。大多数は、やはり見つからないから、誰も見ていないからということで、犯罪に走ってしまうケースが多いと思います。

しかし、人の存在は、生きている人間だけではないのです。実際は、誰も見ていないという世界、状況というのは、本当はどこにもないのです。肉体を持った存在は居なくとも肉体を持たない存在は、どこにでもいて、また、物質の影響を受けないので、どこにでも同時に存在しています。

人は、犯罪を犯すときに多くの人が見ていて、また、被害を受けた方が永遠に存在すること理解したとき、安々と犯罪行為に走れるでしょうか?

2.生老病死に対する概念が変わる
生きることが苦難であることは、必ずほとんどの方が1度は体験することと思いますが、人が、本当に苦しむのは、その状態から脱することが永遠に出来ない、変えることが出来ないと諦めるときと思います。

人生を80年と区切りそれで終わりと考えれば、80年の中で得られなかったものや事象は、後悔の対象になるかもしれません。しかし、80年では到底終わらず更に長く続くものと理解したとき、人生は可能性も無限にあふれて来ます。

70歳を廻り死期が近いと感じるとき、人生がこれで終焉と思えば思うほど、やる気が失せるかもしれません。しかし、次に続く世界が理解でき、小学校の子ども達が、将来自分は何になりたいと思い描けるほどに、死後の世界の状況が一般知識化していたならば、死期が近くなる毎に、「死んでから自分は何になりたい」という様に、期待と希望を失うことはないでしょう。生きている間に次の世界や生の準備をするという事が可能なのです。

3.永続的な社会システムが出現する
人が社会システムを創る時に、永遠に続く良いシステムであるべきかと考えるか、とりあえず自分の生きている時期や子供の代まで続けば良いだろうと考えて創るかでは、システムの出来に雲泥の差が出ると思います。

などなど、言い出せばきりがないほど、色んな違いが見つかります。
人は有限的な生を持った存在であるか、永遠の存在であるかという価値観の違いは、影響力が内容に見えて、私たちの生きている世界がどのように創られるかの根源を左右する価値観であると思います。

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