医師 肥田舜太郎先生 – 原爆の本当の被害状況を伝えて下さる数少ないご経験者

先日、「国際有機農業映画祭2011」に参加た際に、そこで手に取った資料(ご自由にお取り下さいの中)に大変興味深い内容の資料がありました。

その資料の原文を探したところ、ネットで見つけましたので、抜粋でご紹介致します。

テーマ:「原爆・放射能と憲法9条」
講師:肥田舜太郎先生(医師)
2011.3.19.大泉教会にて

【肥田舜太郎医師のプロフィール】
1917年広島生まれ 94歳
1944年軍医となり広島陸軍病院に赴任。
翌45年に被爆、被爆者の救助にあたる。
全日本民医連理事、埼玉民医連会長などを歴任。現在、全日本民医連顧問。日本被団協原爆被害者中央相談所元理事長。
著書に、『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)、「内部被爆の脅威」ちくま新書

◎原爆投下までの広島
 肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳の時に現役の軍医として広島の陸軍病院におりました。ちょうど原爆が落ちる一年前の昭和19年の8月1日に赴任しましたが、もう戦争は負けが近くて、軍隊の中でも勝てるなどと思っている人は一人もおりません。大本営が発表する中国での戦線の状況も、「勝った!勝った!」と言うのもみんな嘘だ。そこから入院してくる兵隊がいるわけですが、帰ってきた人は全部広島の陸軍病院に入院して、そこから別のところに振り分けるのです。どの兵隊に聞いても、「お前のところは勝ったそうだな」と聞いても、「師団長以下戦死しましたよ」という状態で、勝つなんて言葉は全然出てこないのです。というわけで、軍隊の中では僕らは負けることを知っていました。そんな時に軍隊に入って、しかも戦争の被害を受けた兵隊、あるいは将校の医療をやっていたわけです。

 みなさまご存知でしょうけど、昭和20年のお正月ごろには、もう日本の大きな町はほとんど空襲で焼かれてしまって大変な状態になっていたのです。しかし、広島は不思議なことに、毎日飛行機が来るのに弾一発も落ちないのです。当時はなぜそうなのかはわからなかったのですが、広島は原爆用にとってあったために、爆撃が来なかったのですね。飛行機が来ても通り過ぎて他所へ落とすのです。ですから広島の市民は比較的のんびりしていました。空襲警報が鳴ると防空ごうに入るのですが、終いには弾が落ちないというのが習慣になってしまって、防空壕の入り口で横になって空を見ていたりしたのです。

◎原爆はアメリカの軍事機密
 8月6日の朝のことを、被爆者の方は広島にしても長崎にしても、爆弾の落ちた直下の惨状をみなさんお話しになる。あの惨憺たる地獄のような状態をみなさんお話しになるのですけれども、「我々はなぜ落とされたのか」「なぜ広島が選ばれたのか」「その後被爆者はどのようになったのか」については、ご自分の周辺の知識しかなくて、全面的に話せる方はほとんどいないのです。

 私は原爆にあって死んでいく人を治療して、大変なことだと思っていたのですけれど、本当に大変なもので、人類にとってあのようなものは二度と許してはいけないと思うようになったのは、30年、40年経ってからのことです。つまり、本人は被爆をしていない、たまたま警察官をしていたために、動員されて翌日広島に入って、町の中で救援活動をやった、そして一段落して普通の警察官の仕事に戻る頃から身体がおかしくなって、お医者さんに行っても「何でもない」と言われる。そのうちに寝たきりになってしまう。そしてどんなにいい先生にかかっても病気がわからない。それで死んで行く。どんな先生にも彼らの病名はわからない。死亡診断書の書きようがないので、仕方がないから、最後はみな心臓が弱りますから「急性心不全」という病名を付けて役場で扱ってもらう。私は半年ぐらいまでは、強引に「原爆症」という名前をつけたのです。ところがそれでは役場に持って行かれないのです。戻されてしまうのです。「この病気は国際的に登録されていない。これでは法律上で受け取る訳にいかないから法律の中にある病気を書いてくれ」というのです。「原爆で死んだのは間違いない」といくら言っても駄目でした。私はむしろ、直接被爆をしないで、翌日や3日後に広島に入って、今の医学ではわからない病気になって、失業するし、就職もあきらめる、結婚もできないというような不幸を受けた被爆者の人を、特に私は意識的に対応してきました。そういう意味で、戦後アメリカの占領のもとでは、そういうことを喋っただけで掴まりますから、私は3度掴まっているのですけど、そういう運動をやっても占領下ではどうにもならないので、救援活動をしました。7年後にアメリカはサンフランシスコ条約を結んで日本を独立させ、一応日本の政府が国を治める体制になりました。しかし中身は、安保条約を結んで、日本の総理大臣が自分の議会と共に国民のための政治を行うことは未だにできていません。大きな問題は全部アメリカの承認を受けてやるという格好が続いているのです。そのおかげで広島・長崎の原爆について、どんなことでも全部アメリカの軍事機密になっています。ですから、これだけ時間が経って、今原発であんなことが起こってどうしようもないことになっているけれども、何をどうするかという問題について自由にできない。アメリカの専門家が急に来たでしょ。つまりアメリカが今まで世界に言ってきたことと違うことをやられたり、違うことを学者がしゃべるとアメリカは大変なことになりますから、それを差し止めに来ているんですよ。だからこと放射線に関する問題については、日本人は何も知る自由がない。直後から日本の医師会は、放射線に関することは言わないことになっている、研究してはいけないことになっているんです。日本の医者や学者は全部アメリカの言うことを、アメリカに行って学んできて、それを放射線問題だと思い込んでいるのです。だから被爆者が何を言ってきても、「その人の病気が放射能の影響だ」などと言おうものなら学校は首になるし、自分の出世に差し支えますから…。それで首になった助教授をたくさん知っています。

 東北で起こっている発電所の大事故について、新聞に出てくる記事は全部検閲済みの記事なのです。実際のことは何も書いていないのです。その事実を公に発表して、本にも書いてという活動をしてきたのは僕一人なんです。いっしょに広島で治療をした同僚や先輩の医者は、ほとんど死ぬか寝たきりになっている。日本全国でこうしてこんなところに出てきてしゃべる医者は、もう私一人になってしまった。そういう意味で、皆さんにとって今日のような話は二度と聞くことはできないと思います。

◎私の8月6日
 頭の上で爆弾が爆発して地上にいて即死した人は、公には広島では7万人ぐらいと言われています。私はその日の朝、ちょうど2時頃ですが、広島から6キロ地点にある戸坂村から孫娘の往診を頼まれたのです。その家は子どものお父さんは戦死していない、お母さんは病気で里へ帰っている、おばあさんは死んでしまって、結局おじいさんが一人で6歳の孫娘の面倒を見ていたのですが、そのおじいさんが昔から知っている人なもので、自転車で病院まで来まして、心臓弁膜症の孫娘が苦しんでいるから来てくれと言うのです。今なら救急車で運ばれる症状ですけれど、その当時はそのような体制はありませんから、私を頼って病院まできて、私を自転車に積んで家まで連れていったのです。私は酒を飲んで酔っていたので、自転車から落ちてしまうのです。そこで自分の帯を解いて私の身体といっしょに縛りつけて、私はおじいさんの頭を持つようにして家まで行って治療をしました。子どもの症状が治まったので、その日はその家に泊めてもらって、朝7時には起きて病院に行こうと思っていたのですが、寝坊をして起きたのは8時でした。それで、出がけにもう一度診察をしようとしたら子どもは元気になっていました。でも私がいなくなったことに気がつくとまた発作が起きるので、夕方まで寝かしておこうと睡眠剤を注射しようとしたちょうどそのころ、上空の高いところに飛行機が一機入ってきました。B29です。そんなところを飛べる飛行機はもう日本にはないのです。日本の飛行機は1000メートルも上がれなかったのです。だからアメリカの爆撃機だということはわかっていましたが、毎日のようにたくさんの飛行機が来ても爆弾を落とさないのに、一機だけ来て落とすわけはないと思って心配しませんでした。子どもに注射をする為に注射器の針を上に向けて空気を押し出そうとした時に飛行機が見えて、すぐその後に強い光で目がくらみました。被爆した人は、最初は光で目がくらんだと誰もが言います。私も目がくらんでしばらくは目が見えないのです。あたりが銀色になってしまって…。だんだんに見えはじめたので、何が起こったかと思って空を見ていたら、何もない青空に、ちょうど広島の上空に当たるところに大きな丸い火の輪ができたのです。そして火の輪の中心、何もない青空の部分に白い雲が出てきてどんどん膨らんでいき、それがそのまま真っ赤な火の玉になった。直径は700メートルぐらいあったのだと後に知りました。目の前に太陽ができたような感じでした。見ていると火の玉の上の方から真っ白い雲がどんどん昇るんです。下の方は、私のいる村と広島の間に丘があるのですが、その丘の向こう側に火柱が立っているように見える。それが5色の光を放ってチカチカ光ってきれいなのです。生まれてはじめて見る光景ですので恐いです。非常に恐かったので縁側に腰をついたままぼやっと見ていました。そのうちに丘の向こうから、真っ黒な横に長い帯のような雲が顔を出したと思うと、山を越えてこちらへなだれ落ちる。それが見る見るうちに渦を巻きながら私のいる村の小さな小山の向こうに顔をだす。黄色のようにも見えるし、黒くもみえる。それがたちまち村の中に入ってきて、距離はあるけれども私のいる農家の正面に建っている瓦屋根の家の瓦がパアーと吹き飛ばされる。アーッと思っているうちに、薄黄色い雲なのか煙なのかわからないものが私のところまで来て、私はそのまま縁側から吹き飛ばされて家の中を飛びました。目の前に天井が見え、天井を見ながら飛んでいました。そのうちに麦わら屋根がどかーんと吹き上げられて青空が見えたことだけは覚えています。そして大きな仏壇に打ち付けられて、屋根にあった泥が落ちてきて小さな子どもといっしょに泥に飲み込まれてしまいました。気がついたら泥に埋まっていたので、とにかく這い出して逃げようとしましたが、子どもがいたことを思い出し、見ると泥の山から白い花模様の夏布団の端が見えていたので、それを掴んでまくり上げたら子どもが転がりでました。その子を抱えて表に行き、聴診器はどこかに行ってしまっていたので、耳の中のドロをとって女の子の胸に耳を当てて心臓の音を聞いたところ、元気な音がしていました。そこで、大きな声で「子どもはここにいるよ。大丈夫だからね」と叫んで、庭に転がっていた自転車にまたがってキノコ雲に向かって病院を目指して走り出しました。その時は、本当は後を向いて走り出したい気持ちでした。でも任務だから仕方がないと思って走っていきました。今は自動車道四車線の大きな国道が通っていますが、当時は荷車がやっとすれ違えるくらいの砂利道です。そこを病院に向かって自転車で走って行きましたが、はじめのうちは誰もいません。犬っコロ一匹見かけませんでした。

◎直撃を受けた被爆者
 しばらく行くと村の中は大騒ぎになっていました。潰れた家もあるし、死んだ人もいる。ちょうど広島までの距離の中ほどまで行くと、広島から逃げてきた最初の被爆者に会いました。かなり遠くから見えたのですが、人間だとは思えなかったのです。真っ黒けの、ちょうど人間くらいの高さの棒みたいなものがゆらゆら動いている。だんだん見えるようになると、ボロを着ているように見える。ボロボロのものが身体から下がっている。だらりと出している手の前にもボロが下がっている。顔の位置に確かに丸い頭があるのだけれども、顔があるのだかないのだかわからないのです。お饅頭のように腫れ上がったところに2つ穴が開いている。鼻がなくて耳のあたりまで口になっている。唇が腫れ上がっているのです。真っ黒けで。髪の毛はあるのだかないのだかわかりません。その人が私の方に「ウッウッ」と言いながら歩いてくる。始めは自転車に乗っていたのだけれど、だんだんに恐くなって自転車を下りてゆっくり歩いて行きました。向こうは私が見えたので早く助けてほしいのでよろよろしながら急ぎ足になる。私はすがりつかれると恐いから、悪いけれど自転車を置いてだんだん後に下がって行きました。本当に悪いことをしました。私の置いた自転車につまずいて、僕の前に倒れたのです。それを見て、あぁこの人は生きた人間だったのだと思って、良く見たら、ボロをかぶっていたのではなくて、皮膚がはがれて垂れ下がっていたのでした。医者はそういう時最初に脈をとるのです。心臓に勢いがあるかどうか。ところが脈をとろうとしたら触るところがない。赤剥けの状態なのです。皮膚がないから触れないのです。どうしようかとしばらく見ているうちに痙攣を起こして動かなくなってしまいました。重症のまま2キロも歩いてきて亡くなったのです。それが私の会った最初の被爆死者です。

 こういう見たこともないような大怪我ですから、私はそれについては何も知りません。こんなふうに焼かれてくる人がいるのだから、あの中はどうなっているのだろうと思いましたが、入らないわけにはいかないので、勇気を奮い起こして自転車にまたがって、さあ行きましょうと思ったら、同じような人がいっぱい来るのです。道いっぱいに。立っている人もいるし、いざっている人もいるし、這ってくる人もいる。隣の人に寄りかかってくる人もいる。みんな赤剥けのズルズルです。私は恐くなりまして、このままではとても広島には行けないと道をあきらめて、川を超えようとしました。太田川に入って、川の縁を腰まで水に浸かりながら広島へ歩いて病院の500メートルぐらい手前の土手まで行って、そこから上がって市内に入ろうとしたら、その上に建っている家が燃えている最中でした。燃えている火の中から火だるまになった人が川に飛び降りるのです。川に落ちてそのまま流れていく人もいるし、立ち上がって歩き出す人もいる。大体の人は私が行こうとする方向からこちらの岸に逃げて行こうとする。川の中には何段にもなって死体が重なっている。そこにあとからあとから私の目の前で人が飛び込む。私は何をしていいかわからなくなりました。どうしていいかわからなくて30分ぐらいそこにいたでしょうか。川面を上の方から流れてくる死体が私にぶつかって、ぐるっと回ってまた流れていく。腰ぐらいの深さでしたが、底の方にもたくさん流れてくる。生きた心地がしませんでした。残虐の極みですから。よく気が狂わなかったと自分でも思います。病院に行きたいのだけれども、このような状態では病院の人たちは死んでいるだろう、生きていても何もすることができないだろう。ここから逃げていく人は全部村を通るのだから、医者として何かするなら村に帰るのがいいのではないか、村の人といっしょになれば何かできるだろうと思って帰る決心をするのですが、目の前の状況をみると逃げて行くようで、すまなくてうじうじしていました。とうとう決心をして、ごめんなさいと手を合わせて村へ帰りました。道は通れませんから川を上りました。3時間ぐらいかかって村に着いたら、村の中はそういう人でいっぱいです。村にはまともな家はどこにもないので、血だらけになった人が近所の空き地だとか木のある林の中とか、日を遮ることのできるところへ横になっていました。最初の人が横たわってしまうから、後から来た人はその人の上を這い登って奥へ奥へ入っていく。道路と運動場の境のない、広い運動場の奥に崩れ落ちた小学校の校舎がある。大きな田舎の小学校の運動場に5000人ぐらいの人が横たわっている。見ていると頭が動いたり手が動いたりしている人もいるけれど、全く動かなくなった人も何人かいます。頭の中では「俺は医者だ」と思っているのだけれど、聴診器はなく、素手で何にもなしに突っ立っていました。どうしていいかわからないのです。そしたら、たまたま顔見知りの、他所の病院にいた軍医が偶然4人いましたので、話し合ってここで何とかしようということになりました。それでも、どうしていいか考えがつかないのです。何が起こったかわからないけれど、大きな風が吹いてゴーっという音と共に家が壊れはじめた。村の人は自分の家だけが心配だからそこで何かやっている。何軒が潰れて人が死んだという話を聞くから何かしなければならないけれど、何が起こったかわからないものだからうろうろしている。ちょうど私が帰ってきたものだから「肥田中尉殿何とかしてつかわさい」というのです。何とかしろと言われても私にはどうしていいかわからない。「今私は広島まで行ったけれども、広島からこの村に何万人もの人が逃げてくるよ。あんた方は嫌でもその面倒を見なくてはならないんだよ。村の人を集めて迎える準備をしなければならない」と言い、軍医達と明日から仕事をするにしても、その場所をつくらなければいけないので、運動場で寝ている人の中で、死んでいる人を見つけて運び出して、場所をつくる事にしました。こうして空いた場所にテントを張ってもらって、明日から歩ける人はそこへ来て治療をする場所にする段取りをして、私は動かなくなった人の傍に行って、生きているか死んでいるかを確かめて、「この人駄目」と指示をするのを、村の人がその人を担ぎ出すという仕事から始まったのです。残酷な仕事です。寝ている人は軍医が来たということがわかるから、とにかく痛みをとってくれとか治療してほしいという顔で私を見るのです。でも何もしてくれないので、起き上がれないから寝たまま睨み付けるのです。睨まれながら目をそらして、動かなくなったところに行って指示をするのです。辛い思いをしました。

◎未知の症状を示す患者たち
 そういう状態が続いて、3日目の朝に四国や九州の軍隊の軍医が看護婦を連れて大勢来きました。私のところにも27、8人の若い軍医が来てくれました。ところがこの連中は、あまり臨床経験がないのです。看護婦も100人ぐらい来たでしょうか。看護婦は寝転がっている人のうちの症状の重い人を見つけては大きな声を出して軍医を呼ぶのです。「軍医殿、熱が出てます」と。計ると39度何分とか40度という熱が出ている。このような熱はマラリアとチフス以外に診たことがないのです。広島で熱が出たというと広島の医者はチフスを疑います。広島はチフスで有名なのです。生牡蛎を食べるせいです。だからチフスと聞くとぞっとするのです。このようなところでチフスが発生したら全滅ですから。若い医者はチフスを知らないから結局僕が診ることになる。チフスだと思って診るのだけれども、どうもチフスではなさそうで、症状がまるで診たことがない。普通の時は絶対に出血のない瞼から血がタラタラ垂れる。顔は火傷しているけれども、瞼をひっくり返してみても目の中は焼けていない。それなのに瞼から血が出る、鼻から出る、口から出る。熱が出ているから恐らく扁桃腺が腫れているだろうと口を開けてみると、普通口の中は桃色か赤い色ですが、その人の口の中は真っ黒です。腐っているのです、口の中が。そして顔を向けてじっとしていられないくらい臭いのです。火傷していない健康な肌が残っているのですが、そのきれいな肌に紫色の斑点が出ている。これは心臓の病気で死ぬ時に現れる紫斑というものですが、臨床経験のない若い医者だとわからない。これを見たことのある医者はあまりいないのです。見たことのある人は一目でわかるけれども、知らない医者が見れば何のことやらわからない。そんな変わった症状で死んでいくのです。最後に頭の毛が抜ける。みなさんは頭の毛が抜けて櫛についてくるのを見ていると思いますが、この人たちは、頭皮を手で触れただけで髪の毛がどさっと手についてきてしまうのです。もう1時間ぐらいしか生きられないという女の人が息を振り絞るような声を出して、「私の毛が…」と言って泣き出しました。女の人は死ぬ間際まで自分の毛がなくなることがあんなに悲しいことかと初めて知りました。つまり、僕らが診たことのない出血と、高熱と、脱毛と、紫斑と、口の中が腐る、そういう症状が5つ揃うと死んでしまう。こんなものは生まれてから診たこともないし、教科書で見たこともない。生まれて初めて経験したことなのです。その原因も勿論わからない。原爆がどういうものかわからないのです。

◎誰にも理解されない「内部被ばく」
 体内被ばくというものがわかるまでに30年かかりました。30年間東京にいた被爆者を診たり、埼玉に行ってからは、お金があって来れる人は関東平野からみんな僕のところに来るのです。あそこに行けば話を聞いてくれる。他所の医者は何もわからないから、そんなことは関係ない。今は血圧が高いからそれだけは診るという感じです。だから、原爆が落ちた時からの話を聞いてくれて、わかるように説明してくれる医者が埼玉にいるといいうことで、長野とか、新潟とか宇都宮、あるいは東京、千葉、神奈川などからいっぱい来ました。

 最初にこの病気が何なのかということを教えてくれたのはスターングラスというアメリカ人で世界的に有名な放射線科の医者でしたが、その人の論文で知りました。1950年ごろから、日本でいうと昭和25年ですが、アメリカはそのころから核実験を始めているのです。爆発の後に雨が降ると黒い雨になります。その雨が皮膚につくと病気になるということは知られています。ところが雨の粒ではなく埃も降ってくる。放射能は目に見えないけれどもそれを吸い込むと病気が起こる。しかし埃を吸ったからだとは誰も気がつかない。核実験の際、試験場のまわりに塹壕を掘って底に兵隊を入らせておいた。この時の実験は戦場で核爆弾を使用した後、何分で機関銃が撃てるかという実験でした。それを生身の人間をつかって実験したのです。「目をつぶれ、鼻をつまんで息をとめてろ、OKが出たら目を開けてよろしい」と命令されて、演習場の放射能の煙の中に突撃したのです。爆発の後、回りで見ている人間には爆発実験はもう済んでいるわけです。ところが黒い雨は降らずに埃だけが下りてくる。みんな被ばくしました。広島・長崎の被爆者と同じように初期被ばくを受けないで、後から落ちてきた埃を吸い込んで多くの兵士が‘ぶらぶら病’という病気になったのです。内部被ばくです。

 ‘ぶらぶら病’というのは医者がつけた病気ではなく、患者の家族がつけた名です。見たところは何でもないのに「父ちゃん畑に行って働いてよ」と言われて畑に行くけれども30分と持たない。「俺はもう、かったるくて起きてられねえよ。先に帰るからな」と帰ってしまい、座敷で横になってしまうのです。毎日そんなことが続くので、家族や仲間達は「あいつは広島に行って怠け者になって帰った」と言うわけです。医者に診せても、検査をどれだけやっても情報らしい情報は何もないのです。本人がかったるくて動けないと言うから、仕方がないから「なまけ病」という意味で‘ぶらぶら病’、これが広島、長崎を中心に広がって僕のところにもやって来ます。ビックリしたのはだるさの程度の強さです。だるいというのは自分も経験しているから、その程度のだるさというのはわかるのです。ところがこんなことがありました。始めてきた患者が、受けつけでは差別されるから言わないのですが、僕の前に来ると「広島におられた肥田先生ですか」と聞くんです。そうだと答えると、安心して「私も広島の被爆者です」と初めて言うのです。「どうして来たの?」と言うと「かったるくて動けないんです」と言って、どこで被爆したなどと話を聞いているうちに「先生ごめんなさい」と言って、私の机にもたれ掛かるようにする。その内に椅子から降りて床にあぐらをかいていたかと思うと今度は床に横になってしまうのです。「こういう形でしか私は起きていられないのです」と言うのです。「そんなにだるいの?」と聞くと「そうなんです」と答えるんですね。それで初めて僕は「ぶらぶら病の患者のだるさの程度がわかったのです。そして初めてこれはただ事じゃないと思いました。

◎「病気ではない」という診断
 昭和20年の12月の半ばに戸坂村の小学校を使った診療所が閉鎖されました。村の人に、「学校も始まることだし、村の迷惑になるから、病院の人は患者さんを連れてどこかへ行ってくれ」と言われたのです。結局はマッカーサー司令部に、患者と職員の行くところがなくて困っているから、どこでもいいから、これだけの人数が入れて病院の仕事ができるところを配置してくれと頼んで、山口県の柳井というところにある古い軍隊の建物をもらって移りました。軍隊の建物ですから窓のすき間からスースー風が入って来る、海岸ですから寒いのです。それをみんなで目張りをして、病院づくりをやってやっと始めたのですが、軍隊というところは階級があるじゃないですか。マッカーサー司令部が許可しても、地域を担当している司令官はそんなこと聞いていない。広島県から集団で人間が移るというのは中央で禁止されている。僕たちだけ特別に許可されているということは地方には伝わらないのですね。そこで何日も書類を見せたりなどしてやっとわかってくれたのですが、海軍がきかないのです。「わけのわからない広島の船が航行するなど聞いていない」というわけで、何日もかかって苦労をして、やっと行ったのです。ところが山口県に逃げて行った被ばく者が何万といるのですが、お医者さんがなくて困っていたので、病院ができたというのでみんな来るわけです。たちまち倍になってしまいました。医者は6人か7人です。3000人から4000人の人が「まだここはできていませんか?」と言って勝手に布団を持ってきて、暖房はないからそこらの農家から七輪を借りてきて、そこらの古材を持ってきては部屋の中で焚き火をするのです。そういうところで僕らが仕事をしていたら、さっきの‘ぶらぶら病’の人が入院してきて、寝たきりになってしまったのです。朝から晩まで看護婦が何人も必要なわけです。人手は足りないし、治療法はわからないし…、そのうちに看護婦が行ってみたら「死んでました」ということが起こるわけです。そういうのを何例も診て、いったい何の病気なんだろうと30年ぐらい、私は頭の中に持ち続けていました。山口医大に患者を送ったり、東大の先生方に教えてほしいと言うのだけれども、誰もまともな返事をしてくれない。本当なら「こういう病気を私たちは診たこともない、申し訳ないけれど私にはわかりません」というのが一番正直なのです。ところが「これは病気ではない」というのが大多数の返事なのです。こんな乱暴な話はありますか。自分の知らない病気はこの世の中にひとつもないのだ。というのが大学教授なんです。もう腹が立ってね。「お前はそれでも人間なのか」と言いたいです。実際、紹介状をつけて、お金がない時なのに、高い車に乗せて看護婦が大学病院に連れていくわけですよ。それで何時間も待って、やっとこさ診てもらったら、「病気じゃありません」なんてとんでもない話です。だから、私はもう偉い先生はぜんぜん信用しないのです。僕はその先生からもらった「病気ではありません」という診断書をとってあります。いつか持って行って「お前はこんなことを言ったんだぞ」と言ってやりたい。でも、もう生きている人は一人もいません。当時30歳の私が紹介状を書いた先生は45歳から55歳ぐらいでしょう。今生きていたら120歳以上ですね。

☆まだまだ続きます。全部読みたい方は、下記まで。
http://members3.jcom.home.ne.jp/nerima9zyo/html/hidasyunntarou.html

肥田先生の書かれた内容を読んでいると、如何に放射能被害にあった人々の情報が表に出ない仕組みになっているかがよく分かりました。

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★その他に見つけた肥田舜太郎先生関連のリンクです★

■岩上安身さんが、肥田先生の3時間を超えるインタビューを行っておりました!
2011/10/06 肥田舜太郎先生インタビュー
http://iwakamiyasumi.com/archives/12979
※更にこのインタービュー動画は既にテキスト化もされています!

■肥田舜太郎先生のyoutubeの動画

※上記youtubeの文字起こしもあります!(ちょっと重いです。。)
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65732731.html

■肥田舜太郎先生と『ミツバチの羽音と地球の回転』の監督である鎌仲ひとみさんのご本です。
「内部被曝の脅威」著者:肥田舜太郎/鎌仲ひとみ
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0c9bd210.37602fef.0c9bd211.9b9e9d18/?pc=http%3a%2f%2fbooks.rakuten.co.jp%2frb%2f3577224%2f%3fscid%3daf_ich_link_tbl&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11462032%2f

「広島の消えた日」著者:肥田舜太郎
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0c9bd210.37602fef.0c9bd211.9b9e9d18/?pc=http%3a%2f%2fbooks.rakuten.co.jp%2frb%2f6445568%2f%3fscid%3daf_ich_link_tbl&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13631577%2f

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